書くべきものは雑文と呼ばれるテキスト(カクテキ本館)

日記でもなく論説でもなく、雑文のようなものを書いていきます。

教育パパであるということ

 以下は、息子たちの教育について父親としてどう臨むべきか、自らの体験をもとに書いた文章である。ただ、5年以上前に書いたものであるので若干古く感じられるところもあると思うが、そこはどうかご寛恕いただきたい。

 

 私は息子の教育には大変厳しい父親であったと思う。

 息子たちには幼少のころより、マンガと ゲームを浴びるほど買い与えた。親のしていない我慢を子どもに強いることほど欺瞞に満ちたパターナリズムはないと考えるゆえである。

 コロコロコミックと少年ジャンプは基本として欠かさず購読し、すぐれたマンガ(「ギャグマンガ日和」など)は単行本を買いそろえ、任天堂のゲーム機は初代ファミコ ンから(バーチャルボーイを除いて)ほぼすべてある。(それでも、我が家のマンガの単行本は千冊に届かず、ゲームソフトも二百本に届かない。まだまだ道は遠い。)

 おもちゃ類も父親の許したものに限ってではあるがふんだんに買ってきた。父が許すおもちゃとは、北欧の知育玩具やディズニーグッズなどでは決してない。仮面ライダーのベルトであり、ウルトラ怪獣のフィギュアであり、ベイブレードであり、遊戯王やデュエ ルマスターズのカードである。今でも押し入れの衣装ケースのいくつかと天袋を占領するほどある。少しでも節約していれば、私は今頃マーチになど乗っていない。まことに教育投資には金を惜しまぬ保護者の鑑であるといえよう。

 したがって、日曜日の朝といえども、昼まで寝かせるなどということはしたことがない。叩き起こしてでも戦隊ものと仮面ライダーは見るようにしつけてきた。おかげで、我が家の子どもたちは歴代戦隊やライダーの名前と特徴ならソラで言える教養を身に付けた。ニチアサは引き続きプリキュアも見るように命じてはいたのだが、そこがポケモンサンデーに流れたのだけはいささか残念である(小学生相手でも廃人パーティでタコ殴りにするしょこたん部長は評価している)。もちろん平成ウルトラマンはティガからコスモスまでみっちり学ばせた。

 あとはお笑いである。土日の吉本新喜劇は 必ず見せた。別の部屋で遊んでいても呼んできて見せた。また、小さい頃は「エンタの神様」「爆笑レッドカーペット」で幅広い芸人層に触れるようにさせ、年末はM−1出演者の評価で議論を交わした。「予習より“めちゃイケ”」「復習より“はねとび”」「宿題より“リンカーン”」が父親の教育方針である。 勉強などくだらないニュースの時間に片手間でやればよいのである。もちろん今もなお、「探偵! ナイトスクープ」は眠気を訴えても見ることを命じているし、「アメトーク」は録画し時間のあるときに消化するように伝えてある。

 また忘れてはならないのはジャンクフードである。駄菓子やインスタントラーメン、ハ ンバーガーなど、きちんと定期的に与えてき た。子どもの味覚形成より幼少期の記憶形成である。キャラクターの絵のついた箱菓子など、どれほど買ったか知れたものではない (おまけの大半は父親が没収した)。いまでも、我が家の冷蔵庫には各種アイスが、お菓子備蓄庫にはスナック菓子やグミやチョコ レートがぎっしりである。

 それでも、反抗期には「参考書を買ってほ しい」などと親に向かって大それたことを言うようになった。そんなときでも私は、「愚かなことを言うな。教科書こそアルファでありオメガである。そもそも貴様は教科書のすべてをマスターしたと言えるのか」と冷静に正論で論破 してきた。参考書などただの1冊も買ってやったことはない(小遣いで買うのは許した)。ただし、上の子が高校でめでたく軽音部に入った時は、血迷って地理歴史部や科学研究部などに入らなかった褒美として、すぐさまフェンダージャズベースを買い与えた。並みの参考書なら50冊はゆうに買える値段である。

 ことほどさように、私は息子の教育については心を砕き、大変厳しくしつけてきた。学校教育に関しても非常に厳しい(過酷あるいは逆境ともいう)父親であったと思う。
そして我が息子は、この父親の教育のおかげで、このたび大学にめでたく現役で合格した。

 子を持つ親はみな安心するがよい。「親が邪魔でも子は育つ」のである。

電話が嫌いだ

 私は電話が嫌いだ。かけるのも嫌いだし、受けるのも嫌いだ。電話などこの世から消えてなくなればいいと思っている。

 先日、増田だったか、「電話で仕事の話をするのは失礼だ」というようなエントリを見かけて、今どき直接会いに出かけるべきとは古風なことを言うものだと早合点して読んでみたら全然ちがった。「電話は相手を電話口に拘束するし、記録も残らないので、LINEかメールにしろ。とにかく電話かけてくんなうっとうしい」という内容だった。それはそれでいかがなものかと思わないでもないが、同意のコメントが多かったことから、世の中には電話嫌いの屁理屈野郎が結構いるのだと少し安心した。

 そうなのだ。電話をかけてこられると、なにをしていようと相手をしないとならない。話の腰は折られるし、会議は中断させられるし、ドーナツは飲み込まないといけないし、カップ麺にお湯を注いだ直後など最悪である。どんどん伸びる麺を見つめながら電話の相手をすることほど悲しいことはない。そしていったん電話に出てしまえば、メールを一読して放置するように、受話器を取って返事をしただけでそのまま黙っているというわけにもいかない。そんな逆無言電話、かけた方も不気味だろう。こっちだって申しわけなくてつらい。

 電話で会話を続けるのも苦手である。用件が済んでも雑談を続けようとする相手など最悪である。なんの話をすればいいのだ。道端で会った相手にするように「いいお天気ですな」と言ってみても、「こっちは雨降ってますが」と言われたりする。知らんがな。仕方ないので「カップ麺もずいぶん伸びてしまいました」と言おうとするが、向こうにしてみればそれこそ知らんがなであろう。みんな電話で何を話しているのだろう。

 電話をかけるのはもっと苦手だ。初めて連絡する客先だったりすると必要な電話でも、かける決心がつくまで何時間もかかる。社会人としてどうなんだそれ。

 まず、相手が電話に出てくれるかどうかもわからない。機嫌の良し悪しもわからない。自分が相手を怒らせずにすむかどうかもわからない。ものすごく緊張する。

「もしもし、真高です。今お電話でお話できますか。カップ麺とか大丈夫ですか」

 それではこっちの正気が疑われる。カップ麺からは離れた方がよいかもしれない。

 ことほどさように、私は電話が苦手で嫌いである。「TVチャンピオン 電話嫌い王選手権」があれば、近畿地区予選くらいなら突破する自信がある。

 なのでみなさん、私にあまり電話をかけてこないでください。あるいは、私にあまり電話をかけるよう期待しないでください。もしくは、伸びてしまったカップ麺をおいしく食べる方法を教えてください。

雑文サイトをはじめてみたい

 まだブログという形式が普及する以前、21世紀になるやならずの頃に、インターネットの片隅で「雑文サイト」と呼ばれる個人サイトの一群があった。とくになんの役に立つわけでもない、ひたすらエッセイ風の「おもしろい文章」を、みな競い合うように公開していた。「雑文館」「それだけは聞かんとってくれ」「補陀落通信」「森で屁をこく」といったサイトはよく読んでいた。

 「ろじっく・ぱらだいす」「我思う 故にラーメン」「popoi」「侍魂」といった「テキストサイト」の隆盛と時期は重なっていたが、衰退は雑文サイトの方が早かったように記憶している。

 私がブログをはじめたのは、かつて楽しませてもらったあんな「雑文」を、自分でも書いてみたいと思ったからだ。かの先達に比して、文章力は雲泥の差、月とスッポン、提灯に釣鐘、猪木とエノキ、シン・ゴジラと慎吾痔だ、くらいの違いがあることはもとより承知の上である。

 それでもたまには人様に喜んでもらえるような文章を書きたいと思います。更新もそう頻繁にはいかないと思いますが、あまり期待もせず、気長にお付き合いいただけると幸いです。